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【法政大学総長対談】過去の文化や歴史に学び 日本と中国の建設的な関係構築を(周秉宜 王敏)

法政大学総長 田中優子

南開大学周恩来研究センター特別顧問 
周秉宜(Zhou Bing Yi/しゅう へい ぎ)

法政大学教授 国立新美術館評議員 
王敏(Wang Min/おう びん)

  • 2017年6月13日 掲載
  • コラム・エッセイ

(左)王敏教授 (右)周秉宜氏  


自分の信念を生活の中で実行

田中 伯父様にあたる周恩来さんはかつて日本に留学し、法政大学の敷地内にあった付属の語学学校で学ばれていたとお聞きしています。私どもも大変名誉に思っています。

 そうおっしゃっていただけて、私も大変うれしく思います。王敏さんの調査研究論文を通して、伯父と法政大学との関係の一端を読みました。それを受けて補足的資料になるかと思い、親族の立場から、生活の中での実例を申します。
周一族は代々法律をふくめて、王族や貴族、官僚の教育に携わってきました。古代の官僚の主な仕事は、税金の徴収と治安の整備です。そのため、官僚の教育には法律が深く関わっていたのです。こうした環境の中で育った周恩来は、小さい頃から法律の知識を身近に感じており、清王朝の法律も丸暗記していたそうです。従兄弟たちから「ミニ裁判官」と呼ばれていました。日本に留学した際も、法律で知られていた法政大学を訪ねたのだろうと思います。
 周恩来が日本に留学していた当時の中国は、日本をモデルとしていた時代でしたので、中国のためになるものを一生懸命に吸収したと思われます。彼は、自覚的に学んだことを受け入れて行動のできる人でした。一例を言いますと、1919年に北京で学生運動を行い逮捕された際、著名な担当弁護士に対して自分が持っていた法律の知識を総動員して手紙を通じて裁判の提案をするくらい、知識が豊富だったそうです。こうしたことができたのも、日本への留学体験があったからではないかと私は考えております。

田中 姪御さんとしても周恩来さんとは近い関係だったのですか。

 実は、4歳半の時から20年近く一緒に暮らしました。周恩来は子どもに恵まれず、その弟である父には六人の子どもがいました。私はその三番目の子にあたるのですが、上の三人の子どもたちが周恩来に迎えられることになったのです。当時、小さなビジネスをやっていた父は政府の長官のポストを打診されていましたが、伯父に断るように言われたそうです。周恩来の一族といえども民衆と同じ生活をするようにという考え方からでした。

田中 自分が権力を握ったからといって、親族に利益がわたるという行動はいっさいとらなかったわけですね。

 その通りです。私たちは家では伯父とは食事を共にせず、職員食堂でとりました。寄宿舎のある学校から一時的に帰宅する際は、他の生徒は車のお迎えが来ていましたが、私たち兄弟には職員が三輪車で迎えに来ました。伯父は車が3台ありましたが、絶対に親族を乗せてもらえませんでした。また、高校2年生の時、通っていた学校の卒業式で伯父がスピーチをすることになりました。私も是非聞きに行きたいと秘書にお願いしたところ、伯父から断られたんです。その年の卒業生ではないからという理由でした。厳しい人で、私たちにも普通の人民の一人という意識を持って生活をさせるという確固たる考えを持っていました。

 周さんが行かれていた学校は、軍の高級幹部の子女が通う「特権階層」の性格を持つ学校でした。学校の名前が八月一日の軍の記念日にちなんで「八一学校」と名付けられている、北京屈指の名門校です。全寮制ですが、土日には自宅へ戻れるのです。金曜日の放課後、高級幹部の秘書たちが車で子供たちを迎えに来るのが「風物詩」だったのです。

田中 そのなかで特権を使わない。言葉だけではなく、ご自分の信念を生活の中で実行していたかただったのですね。

 私が小学校4年生の時、伯父と伯母から「伯父さんは周家の総理ではありません。国家の総理です。人々のために働く総理です」と言われました。当時はよく意味がわからなかったのですが、大人になってからわかるようになりました。

田中 大変心を打たれるエピソードです。


常に平和的な関係作りを志向していた

田中 この度は日中国交回復の45周年ということで日本にいらっしゃったとのことですが、ご自身も日本と縁が深いそうですね。

 私の夫は、国営通信社新華社の第一号の日本特派員でもありましたし、姉の夫の祖父も法政大学に留学し、帰国後は中国人民最高法院院長になりました。娘も日本に留学しましたが、当時私は北京で美術雑誌の編集の仕事をしておりましたので、北京と東京を行ったり来たりの生活をしていました。伯父と伯母が亡くなり、美術編集者の仕事を定年退職してからは、周恩来研究の方に転換しました。近年は、周恩来の知り合いや同志、関係者、親戚を訪ねてはインタビューを行い、多くの貴重な記録を集めることに勤しんでいます。

 周秉宜さんのお姉様は周秉徳さんです。日本の国会議員に相当する中国政治協商委員と、国営通信社の中国新聞社(中新社)の副社長を務められたかたです。周秉徳さんのご主人の祖父は沈鈞儒という法律学者で、1900年の初頭、法政大学で政治学と法学を学ばれたかたです。在学中に孫文主導の同盟会に入会して、辛亥革命に貢献されました。新中国の最初の法典を執筆され、人民法院の院長もなさった。中国の近代史で「六君子」のうちの一人に数えられています。

田中 やはり、法政大学と縁の深いご一家なのですね。中国の歴史を作って来られた方々が法政大学で学ばれたことは、たいへん誇りに思います。今は周恩来研究をなさっておられるとのことですが、今の中国にとって周恩来の研究はどのような貢献になると思いますか。

 おそらく全世界共通のことだと思いますが、若い人の人生観は変化しています。こうして変容している社会と人々に対し、価値ある参考を提示できるかといえば、おそらくすぐに目に見えて検証できる成果はあげにくいかもしれません。しかし、史的資料の角度から見れば、高い価値があると信じていますので、ぜひとも後世に残していきたいと思います。周恩来の生き方の根源がすべて中国の伝統文化とつながっており、本人の日常生活ににじみ出ています。他方、現在の中国の若い世代の精神性は混迷状態にありますが、いずれ落ち着いてくるはずです。それを待ちたいと思います。

 中国の伝統文化は範囲がとても広いのです。それは古来、日本が参考にした一面もありますし、選択しなかった部分もありましたように、近代の人々が自らの価値に転換したところと、棚にあげたところがありましょう。その中で、質素な生活態度と謙虚にふるまう美徳を、周恩来はご自身には無論、ご親族にも求めていました。周恩来が自ら主導してできた私の母校、大連外国語大学の学生にもそれを教え続けています。

田中 中国の方たちは人の生き方についての理想を、長いあいだ伝えてきたのですね。それは江戸時代の日本人にとっての根幹でもありました。では、周恩来の社会に対する考え方から今の中国社会を見るとどうでしょう。

 周恩来は平和的な内外関係を築くことを願い、「平和五原則」という政策を打ち出しました。中国が豊かに強くなる努力をしてきましたが、覇権主義的なあり方、内外関係における平和的ではない「強国」という姿勢は、考えていませんでした。

 「平和五原則」というのは、1950年代に周恩来がインドネシアで開催されたバンドン・アジア会議で講演された中で唱えたものでしたが、現在に至ってもなお、中国で学ばれています。

田中 とても大事なメッセージだと思います。

 このほかにも、伯父が14歳の時に作った志を述べる言葉が残っており、今でもそれを座右の銘にしている方が多いのですが、伯父は常に和の精神をもっており、内外の平和関係を志向していたことを忘れないでほしいと思います。

 周恩来元総理のそのお言葉は「中華民族の崛起(くっき)のために勉強していこう」といった内容で、今も青少年の鑑とされています。たぶん、周総理ご自身もお好きな言葉でしょう。青少年に贈る言葉としてよくお使いになったようです。

自分で考え能動的に行動する留学生が増えた

田中 この10年で中国からの留学生が大きく変わってきたと私は感じています。以前は、課題を与えられて勉強するというタイプが多かったように思うのですが、近年は皆、自分で課題を考えて行動するようになり、とても能動的になってきたと感じています。私はそうした変化の過程を興味深く感じています。

 それは素晴らしいですね。私も90年代以降に生まれた若い人たちには能動的に動く人が多いと感じております。

田中 ご専門でいらっしゃる美術の世界でも若手のアーティスト達の動きが活発ですね。

 同感です。私の若い頃にはなかった現象です。一時は美術が活発になればなるほどその中で経済利益をめざすような傾向も現れていましたが、ここ数年でそれも落ち着いてきたような気もいたします。

田中 他の芸術の分野でも中国の若い人が世界的に評価されるようになってきました。

 新しい世代には彼らの見方や基準があります。我々がそれを理解できるとは限らない。新しいものに対して、どう評価すればいいのかが問われるところです。私は、過去に比べて新しいということだけで評価するのは問題があると思っています。美術に関して、精神性の面ではおそらく過去の作品の方が重みがあり、意味が深いのではないでしょうか。

田中 過去に関心を持つことは大事なことです。私は江戸時代の専門家なのですが、近年ようやく中国人の学生が江戸時代に関心を持つようになってきました。過去の時代ではありますが、自分たちの国の同じ時代と比較したいという気持ちをもって取り組んでいるのです。これは大きな変化のように思えます。また、日本の伝統文化が残るところに旅行する中国人も多くなっています。経済発展以外の日本のさまざまなことに関心を持ってくれる方が増えているのはとても喜ばしいことです。

 それならば希望を持ってもよろしいですね。

田中 そうですよね。本日は周さんとお会いして、日中の交流に力を尽くされた周恩来さんやご自身の経験についての貴重なお話を伺い、日本と中国の建設的な関係発展への期待を大いに感じることができました。ありがとうございました。

 私は周家の兄弟と数年前、食事をご一緒させていただきましたが、周秉徳さんのお言葉を忘れられません。周秉徳さんは、30年ものの紹興酒を挙杯してこう述べられました。「叔父の故郷の紹興酒です。王敏に一本を預けましょう。これからの30年も、さらにその後の30年も、中日の平和関係の持続のために」。今も荷の重いお言葉ですが、胸に刻まれています。ありがとうございました。

 ありがとうございました。

南開大学周恩来研究センター特別顧問 

周秉宜(Zhou Bing Yi/しゅう へい ぎ)

1944年、中国・天津市に生まれる。北京中央工芸美術学院卒後、河北省に下放。1973年から北京市人民政府外務事務室に勤務。商務省国際貿易研究所の編集者などを経て、1999年に定年退職。現在、中国共産党文献研究室所属の周恩来思想研究会常務理事、南開大学周恩来研究センター特別顧問を務めている。周恩来研究、特に周恩来の家譜研究に関する論文多数。


法政大学教授 国立新美術館評議員 

王敏(Wang Min/おう びん)

比較文化学、東アジアの文化関係学、国際日本学を研究。宮沢賢治をはじめ日本の傑作を中国に翻訳・紹介すると同時に、『紅楼夢』など中国の名作への翻案を100余冊、日本で発刊している。近年、日本における治水神禹王の現存形態及びシルクロード文化、周恩来ら中国指導者の日本留学に関する史実の調査研究を究めている。 2009年に文化長官表彰。


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